奥多摩を探索する

奥多摩にツーリングに行ってきた。



411号で柳沢峠を越え、奥多摩へと向かう。この辺りは涼しくていいやと峠を下っていると、なにやら錆びついた物体が。



ボロいバスだなぁ…子供が見たら泣くぞこれ。古いバスが物置代わりに使われている光景はさほど珍しくないので今まで気にしていなかったが、よく見るとピラーから何か赤いものが生えている。



アポロウインカーじゃないか!

気になったのでこのバスの素性を調べてみたところ、山梨交通で使われていた昭和30年頃の民生デイゼル(現UDトラックス)製イーグル号というリアエンジンバスだそうだ。

塩山駅~奥多摩(このバスが現役だった当時の名称は氷川)駅を結ぶ路線で運行されていたにしろ、甲府盆地からの最後の回送の終点がここだったにしろ、重ステダブルクラッチで昔の柳沢峠を走るのは大変そうだ。



丹波山村を過ぎて奥多摩町に入る。奥多摩周遊道路の入口付近におよそ手入れがされた形跡も無ければ送電用でもない鉄塔が立っている。上空に張られたワイヤーは山の中に消えていき、その先には



これがある。

名を奥多摩湖ロープウェイといい、昭和37年に開業。奥多摩湖を南北に横断するルートの渡し舟のような役目を持ち、登山者や観光客の需要を見込んで作られたようだが、わずか4年後の昭和41年12月に冬期休業の名目で運行を休止。結局、春が訪れても運行が再開されることはなかった。



運行の再開どころか事業の継続を断念して所在不明にならざるを得なかった運営会社からすれば不本意極まりない事だが、放棄されたこのロープウェイは廃墟として有名になってしまう。

定期的に清掃されているのか、廃墟にありがちな不気味さはそれほど感じられず、人工物が自然に飲み込まれつつある様が幻想的ですらある。



みとう号の愛称が付いた搬器が長い冬季休業に入って51年。この場所に昭和42年の春が訪れ、対岸にいる相棒のくもとり号と再会することは、おそらく無い。




早川入往還を走る

前回の早川町の旧道探索で、かつて早川入往還と呼ばれた街道の一部を走ったので、今回は可能な限りトレースしてみようとまたも早川町に行ってきた。

この街道は早川入の名のとおり、県道開通以前の身延~早川間のメインルートであり、身延町切石から早川町奈良田までを結んでいた。

身延の切石で下ろされる富士川舟運の荷はこのルートで早川流域に運ばれた。言われてみると、県道から見た対岸に民家が集中しているように見えるし、かつて早川町がいくつかの村に分かれていた頃は山中の道路沿いに役場や学校などがあったと言われればこちらがメインルートであったことを疑う理由はない。



というわけで身延町切石をスタートする。県道沿いには古い家屋や蔵などがあり、街道であった名残が感じられた。



県道421号の間遠トンネル付近はループ道になっている。旧道の痕跡は既に無いが、トンネルとループに至る道の地形からみると、以前はつづら折りの峠道だったと思われる。



間遠トンネルはループ道側と早川側で抗門の形が違う。ループ道側はよくある古いトンネルといった雰囲気で路肩の石垣もあってシンプルだが悪くない。



早川側はトンネル内が素堀のコンクリ吹き付けであることがよく分かる無骨な雰囲気。トンネル名のプレートが無いことを考えると法面工事をした際に作り直したように思える。



トンネルを抜けて町道を早川町に向かって進んでいくといくつかの集落がある。集落の前後の道を撮っておけば良かったのだが、道路は落石防護ネットがバッチリ仕事をしている様子が見てとれるので、見張らしは良いものの早いとこ通り抜けてしまいたかった。この道は富士見山林道になる。



早川町内の笹走から塩之上へと下る。さらに下ると草塩集落へと向かう分岐が現れる。草塩へのルートが早川入往還の本線のようだが、残念ながらゲートで閉鎖されていた。



塩之上から薬袋へと向かう道沿いには学校の跡がある。地名は天久保とかいてソラクボと読み、この場所には五箇小中学校と五箇村役場が置かれていた。



五箇村は明治7年から昭和31年の早川町発足まで存在した村で、現在の早川町笹走、塩之上、薬袋(みない)、千須和(せんずわ)、榑坪(くれつぼ)地区が該当する。昭和30年の時点での人口は1,132人だったそうだ。これは現在の早川町全体の人口とほぼ同じ位になる。

翌年に早川町が発足した当時の全人口は8,116人であり、南巨摩の自治体はどこでもそうだが緩やかに減少を続けている。



天久保集落は無人になって久しく、学校や役場の跡も門柱と石碑を残すのみだが、笹走、塩之上の集落の規模や、道路沿いには建物があったと思われる平らな土地も確認できるので、ここがかつて交通の要衝として賑わっていたことが分かる。

天久保から薬袋に下り、温泉に入りたいのと鹿肉が食べたいので県道へ出て草塩へ。草塩には町営温泉とジビエ料理の食べられる加工所がある。

県道37号と早川入往還の線形を比べると、幹線道路が現在の県道になったことも納得できる。仮に県道のベースとなった電源開発のための馬車軌道が作られなくとも、早川入の峠道の拡幅ではなく、早川沿いに新道は作られただろうと、貸し切り状態の町営温泉に浸かりながら思った。鹿肉はラストオーダーを過ぎたので食べることが出来なかった。


早川町を走る その2

再び早川町に行ってきた。

発電施設を作る際に敷設されたトロッコ軌道の跡を探ろうと思っていたが、そもそも県道と井川雨畑林道自体がかつての軌道跡をベースに作られているので、ならば県道の対岸に何か無いかと探してみる。



この鷲尾橋を渡って対岸へ。この橋は路面が側溝の蓋によくあるグレーチングになっている。



下を覗いてみた。増水したときに有利とか、強度とコストの兼ね合いとかでこういう風にしたんだろうけどかなりスリリング。



対岸の町道を行ける所まで行ってみる。舗装されてはいるものの、路面は終始こんな状況。



町道はこの都橋で歩行者および軽車両専用になる。判読できないほど錆びた重量制限の標識を見る限りは、以前は自動車も通行できたようだ。

後で分かった事だが、写真の道は早川入往還と呼ばれた街道の一部のようだ。ただの地元道ではなかったか。



井川雨畑林道にも何かありそうなので、何かがおかしい落石注意標識のある林道を通行止め地点まで行ってみることにする。



林道の奥にはこの稲又橋がある。付近に森林軌道や分校の跡があるそうだが、それよりも橋の下に何かあるぞ。



一部で有名な落ちそうで落ちない橋が。昭和57年の台風以来この状態だそうで、奥の砂防ダムの外観が新しいことを考えると、この地で何が起きたのか容易に想像できる…



橋を渡ってしばらく走るとトンネルの先で通行止になる。これは道の先が危険な状態にあると同時に、この先に民家が無いことを意味している。この区間の開通時期は平成30年の予定だそうで、さらに先の区間は「当面の間」通行止という状態だ。忘れた頃に全面開通して、しばらくすると「当面の間」通行止めになるんだ。

そういえば軌道跡を見に来たんだった



県道から1本隣にある春木川橋の古い欄干が残っているあたりの路面をよく見ると…



レールが路面に埋まっている。冒頭にも書いたとおり、かつてこの地には発電施設を建設するための輸送路として馬車軌道が敷かれ、レールの撤去後は軌道跡をベースにした車道が作られ、現在の県道37号となったのだそうだ。



春木川橋付近の角瀬トンネル脇には使われていない昭和5年完成の旧道のトンネルがあり、内部は素掘りとなっている。



その横にはトンネル開通以前の旧旧道と山に伸びる旧旧旧道らしき徒歩道が残っている。新道が出来ると徹底的に旧道を封鎖する傾向のある山梨において、こういう場所は貴重だ。

ではトンネルの身延側はどうなっているのかと、トンネル脇から伸びる軌道跡を車道にしたように見えなくもない旧道を歩いていく。身延側は大正11年完成で、後年になって春木川橋側のトンネルと接続された痕跡やら、抗門の先に元々の抗門があったり、古い標識が残っているそうだが…



……俺の立っている場所がこうなる前に帰ろう。付近には旅館や駐車スペースもあるので大日影トンネルみたいに遊歩道としてどうにか再利用できないものか?出来るならとっくにやってるか…



 

早川町を走る

山梨県早川町、日本一人口の少ない 町 である。

南アルプスの別名をもつ赤石山脈と櫛形山系の谷を走る早川に沿って集落が点在し、西山温泉にある慶雲館は世界最古の歴史を誇る旅館としてギネスに認定されている。

谷に沿うように走る県道37号線は赤石山脈を越える唯一の車道である北沢峠に通じるものの、自然保護の観点から早川町最北の集落である奈良田でマイカーは通行止めとなっている。



というわけで県道を走って通行止めまで行ってみる。県道37号は一部狭小区間はあるものの、概ね2車線の快走路。



その前に県道から分岐して雨畑湖に寄っておく。この湖は日本軽金属のダム湖で、アルミニウムの精錬に使用する電力を供給する発電ダムがある。
この地区で産出される雨畑真石の正体は遠赤外線を放射する特性をもつブラックシリカであり、古くから多くの書道家に愛される雨畑硯、近年ではブレスレットなどのアクセサリーにも加工されている。



雨畑湖からさらに進むと見神の滝がある。この滝の二段目の滝壺には金があるといわれ、一攫千金を夢見る者が滝に挑むも全て失敗したとの言い伝えが残る。

この滝から先へは静岡市井川へと続く魅惑の峰越えルート、井川雨畑林道が伸びているが、当面の間通行止め。もはや開かずの林道になりつつある。



再び県道に戻り、奈良田へと向かう。新倉には糸魚川静岡構造線の露頭部がある。



世界最古の温泉旅館のある西山温泉を過ぎて、さらに先へと進むと、奈良田に到着する。この地は山梨の秘境と言える集落で、明治までは最寄りの集落まで行くには2時間ほど山を歩く必要があったなど周囲と隔絶されていた土地であり、通常の甲州弁とは異なる奈良田方言というアクセントが関西弁に近い独特の方言が残るという。
また、ここには西山ダムという発電ダムがあり、かつての集落は奈良田湖と呼ばれるダム湖の中に沈んでいる。



さらに北上すると県道は開運隧道のゲートで通行止めとなる。この先は南アルプスの北沢峠を越える南アルプス林道に通じているが、通行出来るのは路線バスとタクシーのみ、自転車も含めて、自前の車両はここで折り返し。


 
帰路は身延山参拝の宿場として栄えた赤沢へ、斜面にひしめき合うように歴史ある建物が建ち並ぶ。



ところで、新倉断層付近にあったこの橋の跡の正体について調べていたら、かつて新倉から赤石山脈を越えて長野県大鹿村へと至る伊奈街道なる街道がかつて存在したという情報が出てきた。(橋は街道とは無関係)赤石山脈を越える街道など計画はあっても実際に作るのは無理だろうと思っていたら…次に行った時に森林軌道の跡と共に探索してみるか。


中山道を旅する



中山道の宿場町、奈良井宿に行ってきた。

約1kmにわたってかつての宿場の雰囲気を残す建物が建ち並ぶ。

江戸時代より漆器や櫛などの木工が盛んで土産物として人気であり、標高1,197mの鳥居峠を越える旅人が体を休めた地である。

周辺には鳥居峠を越える旧中山道の峠道が残り、遊歩道として整備されている。



駐車場には中央本線を走っていた機関車が展示され、近くには中央本線の線形改良により使われなくなったレンガ造りのトンネルが資材置き場として残る。国道19号の新鳥居トンネル付近にも藪の中にレンガ造りのトンネルがあった。

ただ、今回は普通に観光して近くの林道を通って帰るという至ってノーマルなツーリングのつもりなので廃線跡はスルーして地図で林道の場所を確認する。諏訪で峠の釜飯も食べたしな。



このトンネルと峠道の位置関係から察するに…恐らく国道19号の旧道だ。やったぜ。



問題の旧道は途中で中山道の徒歩道と何ヵ所か交差しながら鳥居峠へと向かう。峠付近の案内板に旧国道の表示を確認。ここは間違いなくかつての国道だ。



路面は荒れた所も少なく走りやすい。ゆっくり走っても30分程で峠を越えられる。車道は作業道と携帯電話の中継局に通じる枝道があり、現在は普通に林道として使われているようだ。



峠付近にある徒歩道との分岐点。この位置からは奈良井宿が見える。この道は明治新道といい、開通した明治23年から昭和30年まで鳥居峠を越える唯一の車道だったそうな。



そうなると車体の大小を問わず自動車と名の付くものはこの道路を通るわけで、現在は昭和53年完成の新鳥居トンネルであっという間に鳥居峠を越えられるものの、交通量は今より少ないとはいえ、国道だった当時の峠越えは1時間じゃ済まなかったんじゃなかろうか…

昭和30年に現在は封鎖されている旧鳥居隧道(写真を見る限りガチガチに入り口がコンクリで埋めてあり、電力設備か何かが中に入ってそう)が開通するも、その数年後には新トンネルの計画が持ち上がるというあたり、戦後の自動車の普及ペースが分かるというもの。

残るは徒歩での峠越え。奈良井から藪原までは3時間程かかるようなので次に行ったときの宿題にしておこう。


プロフィール

コーテル・リャン

Author:コーテル・リャン
東に不動車があれば引き取って直してやり
西に峠があれば行ってそこを越え
テントを張れば雷雨に怯え
林道に入ればヨタヨタ走り
誉められもせず 苦にもされず 
そういう人が私です。

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