富士川舟運の痕跡を探る



日本3大急流のひとつに数えられる富士川は、かつて駿河と甲斐を結ぶ富士川舟運と呼ばれる水運が栄えていた。

甲斐からは主に年貢米が、駿河からは塩などの海産物がこの水運を使って運ばれ、江戸時代から鉄道網が発達する20世紀初頭まで輸送の主力として機能していた。物資と共に様々な文化も伝わり、かつての鰍沢は宿場町として現在では信じられない程栄えていたという。



現在の山梨県富士川町から静岡県富士市岩淵までを結んでいた富士川舟運の甲斐の拠点として置かれていた鰍沢河岸跡からスタートして、舟運の痕跡を探ってみたい。

とはいえ、何度も水害に見舞われた富士川はその都度改修され、国道52号を改修する際に宿場町の雰囲気が残っていた建物も撤去されたため、鰍沢、黒沢、青柳の3つの河岸は石碑があるのみでほぼ痕跡は残されていない。県立博物館で資料を見た方が早いし確実だけど、富士川沿いはバイクで走っていて楽しいのでツーリングのついでに探索しようというのが今回のテーマ。



国道52号を静岡に向かい、身延から県道9号と10号を使えばほぼ富士川に沿って走ることが出来る。富士川は山梨県内の釜無川と笛吹川が合流した川で、スタート地点の少し上流から始まる。甲斐からの舟は半日で川を下り、駿河からの舟は4~5日かけて川を上る。当然、船外機など無い時代なので、人力で舟を曳いて川を上っていた。、高瀬舟や笹舟と呼ばれた舟は底面がフラットな木造船で舟を曳く際は帆をかけて風力で補助するようになっていた。



静岡県内に入ると、富士川の最大の難所と呼ばれた釜口峡がある。この日は穏やかな流れだったが、それまでの川幅が一気に狭くなるため、まるで釜の湯が煮えるように渦を巻くので釜口と呼ばれるようになったのだとか。



両岸の岩は川の浸食だけで削れたようには見えない事と、写真を録った釜口橋の下流を覗くと大きさの揃った石が岸に多数転がっているのが見えるので富士川に舟を通すために改修された跡と想像。岩を砕くには上で火を焚いて岩を熱し、その後に水をかけて割る方法や、やぐらの上から鉄棒を落として砕く方法がとられた。



富士川舟運の駿河の拠点となる岩渕には富士川を開削した角倉了以を讃える石碑と岩淵河岸の常夜燈が立っている。岩淵は東海道の吉原~蒲原の間宿として栄え、ここで降ろされた荷は蒲原から清水港へと運ばれて江戸に船で送られた。


画像は山梨県富士川町HPより

富士川舟運の距離は川丈18里(約70km )。末期は鰍沢から勝沼へ至る馬車鉄道も含めると最大で120km程の長大な輸送路が静岡~山梨間に形成されていた。しかし、静岡からは身延線が、東京からは中央本線が山梨まで達すると、300年以上の歴史を誇った航路も遂に終焉を迎えることになる。(舟運末期の頃の身延山参拝の案内には身延から甲府への帰路は高速な身延線の利用を勧める案内があるとのこと)

輸送の主力を鉄道に譲ってから100年以上経ち、その間にも道路と河川の改修が行われ続けたため、川沿いにある水運の遺構もさすがにほとんど残っていない。

現在建設中の中部横断道が完成すると、富士川舟運が半日掛かりで下っていた鰍沢から静岡までの所要時間はとうとう1時間を切ることになる。

なお余談ではあるが、国道52号を改良するために鰍沢河岸の周辺を発掘したら水運の遺構と共にアワビの殻と多数のマグロの骨が出てきたという。
出土品の一部は県立博物館に展示されているが、それよりも山梨には寿司ネタに甘味のついたタレを塗る甲斐路寿司という食べ方がある。

一説では富士川舟運で運ばれるマグロが傷みを押さえるために塩漬けにされていたので、塩辛さを和らげるためにこのような食べ方を始めたという。
そうなると山梨県民のマグロ好きはすでにこの時代から始まっていたことになるし、同様にアワビの煮貝にも舟運で運ばれてきた醤油漬けのアワビがルーツだとする説がある。

このことを考えると山梨県の食文化には富士川舟運の存在が大いに関係していることは間違いなさそうだ。


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Author:コーテル・リャン
東に不動車があれば引き取って直してやり
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テントを張れば雷雨に怯え
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誉められもせず 苦にもされず 
そういう人が私です。

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