早川入往還を走る

前回の早川町の旧道探索、でかつて早川入往還と呼ばれた街道の一部を走ったので、今回は可能な限りトレースしてみようとまたも早川町に行ってきた。

この街道は早川入の名のとおり、県道開通以前の身延~早川間のメインルートであり、身延町切石から早川町奈良田までを結んでいた。

身延の切石で下ろされる富士川舟運の荷はこのルートで早川流域に運ばれた。言われてみると、県道から見た対岸に民家が集中しているように見えるし、かつて早川町がいくつかの村に分かれていた頃は山中の道路沿いに役場や学校などがあったと言われればこちらがメインルートであったことを疑う理由はない。



というわけで身延町切石をスタートする。県道沿いには古い家屋や蔵などがあり、街道であった名残が感じられた。



県道421号の間遠トンネル付近はループ道になっている。旧道の痕跡は既に無いが、トンネルとループに至る道の地形からみると、以前はつづら折りの峠道だったと思われる。



間遠トンネルはループ道側と早川側で抗門の形が違う。ループ道側はよくある古いトンネルといった雰囲気で路肩の石垣もあってシンプルだが悪くない。



早川側はトンネル内が素堀のコンクリ吹き付けであることがよく分かる無骨な雰囲気。トンネル名のプレートが無いことを考えると法面工事をした際に作り直したように思える。



トンネルを抜けて町道を早川町に向かって進んでいくといくつかの集落がある。集落の前後の道を撮っておけば良かったのだが、道路は落石防護ネットがバッチリ仕事をしている様子が見てとれるので、見張らしは良いものの早いとこ通り抜けてしまいたかった。この道は富士見山林道になる。



早川町内の笹走から塩之上へと下る。さらに下ると草塩集落へと向かう分岐が現れる。草塩へのルートが早川入往還の本線のようだが、残念ながらゲートで閉鎖されていた。



塩之上から薬袋へと向かう道沿いには学校の跡がある。地名は天久保とかいてソラクボと読み、この場所には五箇小中学校と五箇村役場が置かれていた。



五箇村は明治7年から昭和31年の早川町発足まで存在した村で、現在の早川町笹走、塩之上、薬袋(みない)、千須和(せんずわ)、榑坪(くれつぼ)地区が該当する。昭和30年の時点での人口は1,132人だったそうだ。これは現在の早川町全体の人口とほぼ同じ位になる。

翌年に早川町が発足した当時の全人口は8,116人であり、南巨摩の自治体はどこでもそうだが緩やかに減少を続けている。



天久保集落は無人になって久しく、学校や役場の跡も門柱と石碑を残すのみだが、笹走、塩之上の集落の規模や、道路沿いには建物があったと思われる平らな土地も確認できるので、ここがかつて交通の要衝として賑わっていたことが分かる。

天久保から薬袋に下り、温泉に入りたいのと鹿肉が食べたいので県道へ出て草塩へ。草塩には町営温泉とジビエ料理の食べられる加工所がある。

県道37号と早川入往還の線形を比べると、幹線道路が現在の県道になったことも納得できる。仮に県道のベースとなった電源開発のための馬車軌道が作られなくとも、早川入の峠道の拡幅ではなく、早川沿いに新道は作られただろうと、貸し切り状態の町営温泉に浸かりながら思った。鹿肉はラストオーダーを過ぎたので食べることが出来なかった。


スポンサーサイト

早川町を走る その2

再び早川町に行ってきた。

発電施設を作る際に敷設されたトロッコ軌道の跡を探ろうと思っていたが、そもそも県道と井川雨畑林道自体がかつての軌道跡をベースに作られているので、ならば県道の対岸に何か無いかと探してみる。



この鷲尾橋を渡って対岸へ。この橋は路面が側溝の蓋によくあるグレーチングになっている。



下を覗いてみた。増水したときに有利とか、強度とコストの兼ね合いとかでこういう風にしたんだろうけどかなりスリリング。



対岸の町道を行ける所まで行ってみる。舗装されてはいるものの、路面は終始こんな状況。



町道はこの都橋で歩行者および軽車両専用になる。判読できないほど錆びた重量制限の標識を見る限りは、以前は自動車も通行できたようだ。

後で分かった事だが、写真の道は早川入往還と呼ばれた街道の一部のようだ。ただの地元道ではなかったか。



井川雨畑林道にも何かありそうなので、何かがおかしい落石注意標識のある林道を通行止め地点まで行ってみることにする。



林道の奥にはこの稲又橋がある。付近に森林軌道や分校の跡があるそうだが、それよりも橋の下に何かあるぞ。



一部で有名な落ちそうで落ちない橋が。昭和57年の台風以来この状態だそうで、奥の砂防ダムの外観が新しいことを考えると、この地で何が起きたのか容易に想像できる…



橋を渡ってしばらく走るとトンネルの先で通行止になる。これは道の先が危険な状態にあると同時に、この先に民家が無いことを意味している。この区間の開通時期は平成30年の予定だそうで、さらに先の区間は「当面の間」通行止という状態だ。忘れた頃に全面開通して、しばらくすると「当面の間」通行止めになるんだ。

そういえば軌道跡を見に来たんだった



県道から1本隣にある春木川橋の古い欄干が残っているあたりの路面をよく見ると…



レールが路面に埋まっている。冒頭にも書いたとおり、かつてこの地には発電施設を建設するための輸送路として馬車軌道が敷かれ、レールの撤去後は軌道跡をベースにした車道が作られ、現在の県道37号となったのだそうだ。



春木川橋付近の角瀬トンネル脇には使われていない昭和5年完成の旧道のトンネルがあり、内部は素掘りとなっている。



その横にはトンネル開通以前の旧旧道と山に伸びる旧旧旧道らしき徒歩道が残っている。新道が出来ると徹底的に旧道を封鎖する傾向のある山梨において、こういう場所は貴重だ。

ではトンネルの身延側はどうなっているのかと、トンネル脇から伸びる軌道跡を車道にしたように見えなくもない旧道を歩いていく。身延側は大正11年完成で、後年になって春木川橋側のトンネルと接続された痕跡やら、抗門の先に元々の抗門があったり、古い標識が残っているそうだが…



……俺の立っている場所がこうなる前に帰ろう。付近には旅館や駐車スペースもあるので大日影トンネルみたいに遊歩道としてどうにか再利用できないものか?出来るならとっくにやってるか…



 

早川町を走る

山梨県早川町、日本一人口の少ない 町 である。

南アルプスの別名をもつ赤石山脈と櫛形山系の谷を走る早川に沿って集落が点在し、西山温泉にある慶雲館は世界最古の歴史を誇る旅館としてギネスに認定されている。

谷に沿うように走る県道37号線は赤石山脈を越える唯一の車道である北沢峠に通じるものの、自然保護の観点から早川町最北の集落である奈良田でマイカーは通行止めとなっている。



というわけで県道を走って通行止めまで行ってみる。県道37号は一部狭小区間はあるものの、概ね2車線の快走路。



その前に県道から分岐して雨畑湖に寄っておく。この湖は日本軽金属のダム湖で、アルミニウムの精錬に使用する電力を供給する発電ダムがある。
この地区で産出される雨畑真石の正体は遠赤外線を放射する特性をもつブラックシリカであり、古くから多くの書道家に愛される雨畑硯、近年ではブレスレットなどのアクセサリーにも加工されている。



雨畑湖からさらに進むと見神の滝がある。この滝の二段目の滝壺には金があるといわれ、一攫千金を夢見る者が滝に挑むも全て失敗したとの言い伝えが残る。

この滝から先へは静岡市井川へと続く魅惑の峰越えルート、井川雨畑林道が伸びているが、当面の間通行止め。もはや開かずの林道になりつつある。



再び県道に戻り、奈良田へと向かう。新倉には糸魚川静岡構造線の露頭部がある。



世界最古の温泉旅館のある西山温泉を過ぎて、さらに先へと進むと、奈良田に到着する。この地は山梨の秘境と言える集落で、明治までは最寄りの集落まで行くには2時間ほど山を歩く必要があったなど周囲と隔絶されていた土地であり、通常の甲州弁とは異なる奈良田方言というアクセントが関西弁に近い独特の方言が残るという。
また、ここには西山ダムという発電ダムがあり、かつての集落は奈良田湖と呼ばれるダム湖の中に沈んでいる。



さらに北上すると県道は開運隧道のゲートで通行止めとなる。この先は南アルプスの北沢峠を越える南アルプス林道に通じているが、通行出来るのは路線バスとタクシーのみ、自転車も含めて、自前の車両はここで折り返し。


 
帰路は身延山参拝の宿場として栄えた赤沢へ、斜面にひしめき合うように歴史ある建物が建ち並ぶ。



ところで、新倉断層付近にあったこの橋の跡の正体について調べていたら、かつて新倉から赤石山脈を越えて長野県大鹿村へと至る伊奈街道なる街道がかつて存在したという情報が出てきた。(橋は街道とは無関係)赤石山脈を越える街道など計画はあっても実際に作るのは無理だろうと思っていたら…次に行った時に森林軌道の跡と共に探索してみるか。


廃れた隧道 撤退編

山梨県身延町を通る国道52号線。
幾度となく改修を受けているこの道路に大正時代に作られた旧道トンネルがひっそりと残っているという。



手持ちのツーリングマップルにはあたかも通行可能なように描かれているこの旧道。実際には完全に廃道となっている。

名を下山隧道といい、大正12年から昭和43年まで使われた。
トンネル名の扁額が巨大なのが特徴だそうで、藪こぎをして谷にある橋を渡ると入口まで行けるようだ。

というわけで現地に到着。そこで驚愕の光景を目にする。



写真を撮っていないので下手な絵で説明する。
山さ行がねがなどの廃道探索サイトで調べた限りでは少なくとも2015年までは盛り土の斜面を下りて橋を渡ると入口まで行けたようだが、橋が見当たらず、入口から続く路盤と共に崩落して無くなっているみたい…むしろよく21世紀まで路盤が残っていたな。

対岸には金網で塞がれた穴らしきものが確認できるものの、藪が深く扁額も確認できず。



またも下手な絵で説明すると山の断面はこのようになっているみたいだ。台風で流れたか、谷を広げるために崩したか。
自分が立っていた盛土の斜面も崩れはしないだろうがあまり長居はしたくない状況。

場所を間違えている可能性が無きにしもあらずだが、どちらにしろ近付くのは自分の技量では無理な感じなので撤退。

万物は土と水から生まれ、いずれ土と水に還るのである。諸行無常なり…

中山道を旅する



中山道の宿場町、奈良井宿に行ってきた。

約1kmにわたってかつての宿場の雰囲気を残す建物が建ち並ぶ。

江戸時代より漆器や櫛などの木工が盛んで土産物として人気であり、標高1,197mの鳥居峠を越える旅人が体を休めた地である。

周辺には鳥居峠を越える旧中山道の峠道が残り、遊歩道として整備されている。



駐車場には中央本線を走っていた機関車が展示され、近くには中央本線の線形改良により使われなくなったレンガ造りのトンネルが資材置き場として残る。国道19号の新鳥居トンネル付近にも藪の中にレンガ造りのトンネルがあった。

ただ、今回は普通に観光して近くの林道を通って帰るという至ってノーマルなツーリングのつもりなので廃線跡はスルーして地図で林道の場所を確認する。諏訪で峠の釜飯も食べたしな。



このトンネルと峠道の位置関係から察するに…恐らく国道19号の旧道だ。やったぜ。



問題の旧道は途中で中山道の徒歩道と何ヵ所か交差しながら鳥居峠へと向かう。峠付近の案内板に旧国道の表示を確認。ここは間違いなくかつての国道だ。



路面は荒れた所も少なく走りやすい。ゆっくり走っても30分程で峠を越えられる。車道は作業道と携帯電話の中継局に通じる枝道があり、現在は普通に林道として使われているようだ。



峠付近にある徒歩道との分岐点。この位置からは奈良井宿が見える。この道は明治新道といい、開通した明治23年から昭和30年まで鳥居峠を越える唯一の車道だったそうな。



そうなると車体の大小を問わず自動車と名の付くものはこの道路を通るわけで、現在は昭和53年完成の新鳥居トンネルであっという間に鳥居峠を越えられるものの、交通量は今より少ないとはいえ、国道だった当時の峠越えは1時間じゃ済まなかったんじゃなかろうか…

昭和30年に現在は封鎖されている旧鳥居隧道(写真を見る限りガチガチに入り口がコンクリで埋めてあり、電力設備か何かが中に入ってそう)が開通するも、その数年後には新トンネルの計画が持ち上がるというあたり、戦後の自動車の普及ペースが分かるというもの。

残るは徒歩での峠越え。奈良井から藪原までは3時間程かかるようなので次に行ったときの宿題にしておこう。


大崩海岸を探索する

宇津ノ谷峠の探索を終えた帰路、大崩海岸によってみた。



この大崩海岸、地名の由来は恐らくそのまんまである。
写真にある洞門は土砂崩落によって放棄され、現在は海上に橋をかけることで崩落を回避している。

また、海上橋から続く崖沿いに走る県道も崩落によって不通となり、2017年に新たなトンネルが完成するまで数年不通となっていた。150号線のバイパスでこの険しいルートは回避できるものの、この山肌のイケそうな所に道を通したような難所はかつて国道150号線として指定されていた。

それ以前には浜辺を通る街道が存在したようだが、現道が100mmの雨で通行止になることを考えると、現在以上の難所であった事は想像に難くない。



洞門の写真を撮った地点から振り返ると、アーチ状の構造物が転がっているのが見える。
これは東海道本線の石部隧道の一部で、台風と海岸侵食によってこのような状態となった。

というわけで、抗口まで行ってみる。抗口までの行き方は割と危険なので念のため伏せておく。



禍々しささえ感じさせる二本のトンネルは形を留めているものの、かつて路盤があった場所は海に飲み込まれ、自然に返りつつある。
石部隧道は東海道本線のトンネルとして明治21年に完成。その後東海道本線が日本坂トンネルを通るルートに変更されると線路跡は車道として転用される。



その後の昭和23年、アイオン台風によりレンガ造りの抗門が崩壊。その後に新幹線が日本坂トンネルを使用するルートに決まると、隣の磯浜隧道と石部隧道とを1本のトンネルとして結合する形に改修され、再び鉄道トンネルとなった。これが現在の東海道本線石部トンネルとなる。



二つのトンネルを結合させたために、崩壊した石部隧道の焼津側と磯浜隧道の静岡側の抗口と、その間にある路盤は役目を終え、自然に飲み込まれるのを待つばかりとなった。
磯浜隧道へ続く路盤は旧石部隧道の抗門と同じく崩落や海岸侵食が進んでいる。磯浜隧道の抗口は埋め戻されて現存しない。

ここにあるトンネルや路盤が役目を終えて50年あまり。そう遠くない未来には、完全に自然に返ることになりそうだ。

ご注意:探索には崩落や滑落などの危険が伴います。この記事を参考にしたことによって生じた事故や損害について、当方は一切責任を負いません。


 

宇津ノ谷峠の古道を歩く その2

蔦の細道の踏破を終えて、旧東海道へと向かう。



川に沿って続く道には水車小屋らしき建物や石積みの堰堤がある。



つたの細道公園付近から旧東海道にアプローチすることができる。このルートは豊臣秀吉が進軍のために開いた道といわれ、明治時代にトンネルが開通するまで東海道の主要ルートとして機能していた。



こちらの峠道はいわばバイパスのようなものだけあって勾配も緩く、道幅も広くて歩きやすい。この時点で小雨がぱらついてきたので早いとこ峠を越えてしまおう。



途中の分岐に排気口という地名が出てくるが、これはそのまんま国道1号のトンネルにある排気口のメンテナンス用道路。旧東海道は石垣の上にある。



しばらく歩くと峠に到着。蔦の細道よりも峠に着くまでの時間はかなり早い。



峠であることを示すのはこのプレートだけで眺望が開けるわけではないが、峠道というのは山肌を巻いていくので無ければ大体こういうものである。



峠を下って行くと地蔵堂跡の石垣が現れる。峠の地蔵というのは安全祈願だけでなく、道標のような役割もあったのだそうだ。



開けた場所からは宇津ノ谷地区の建物が見える。遠くで雷の音が聞こえはじめたので早いとこ下ってしまおう。



竹林をすぎると明治トンネル方面と宇津ノ谷地区方面への分岐がある。トンネルに行きたい衝動を押さえつつ宇津ノ谷地区に向かう。



宇津ノ谷地区は旧東海道の丸子宿と岡部宿の間にある間の宿であり、街並みには街道の面影が残り、保存されている。

これにて宇津ノ谷峠の全ルートは制覇。幸いにも雨はすぐに止んだのでどうにかずぶ濡れで山歩きをする羽目にはならずに済んだ。


宇津ノ谷峠の古道を歩く

以前トンネル群を探索した宇津ノ谷峠。今回はやり残した旧東海道の古道を探索してきた。



まずは道の駅宇津ノ谷峠から蔦の細道と呼ばれる古道にアプローチする。



この峠道は平安時代から室町時代にかけて利用された古道で、宇津ノ谷峠越えの道としては最も古いものになる。



距離としてはそれほど長いコースではないものの、急勾配で峠に向かう道は運動不足の体にはなかなか堪える。この写真を撮った地点は入口から300m程だが、涼しいながらもじんわりと汗をかく。

旧東海道の 薩埵峠もそうだが、何日もかけて東海道を歩いてこの急勾配の峠まで越えていた昔の人の足腰の強さには感心するばかり。



体が歩くモードに切り替わったあたりで峠に到着。晴れていれば富士山まで見渡せるそうだが、この日はこのような天気。まあいつもそんなもんだ。



江戸期まで使われた旧東海道に向かうために峠を岡部側に下っていく。



勾配は相変わらずきついものの比較的歩きやすい。このように趣のある石畳などに旧街道らしさが出ている。



下りきる直前にはこのようなガレ場があるものの、道の駅から登って岡部側に下る方が体力的には楽そうだ。



これにて蔦の細道の踏破は完了。江戸期の旧東海道に向かう。
プロフィール

コーテル・リャン

Author:コーテル・リャン
東に不動車があれば引き取って直してやり
西に峠があれば行ってそこを越え
テントを張れば雷雨に怯え
林道に入ればヨタヨタ走り
誉められもせず 苦にもされず 
そういう人が私です。

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
アクセスカウンター
Amazon.co.jpアソシエイト
スポンサードリンク
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR