SZram4 レビュー



またしても使っているヘルメットのインプレ。

それまでサブヘルメットに使っていたテレオス2のパチモノがボロくなってきたのでちょうど特価品となっていたこのヘルメットを購入。

このヘルメット、さすがアライ製だけあって被ったときの安心感は抜群。



頬まで回り込んだ帽体は頭部全体で重量を支える形になり、ジェットヘルメットながらちょっとしたフルフェイス並のホールド性がある。実際に被ってもあまり重量を感じないので長時間乗っても疲労感が少ない。



アゴヒモはオーソドックスなD環式。内装は脱着出来るのでスポンジがヘタッた場合の交換や丸洗いも容易。



アライらしくスネル規格もJIS規格も通してあり、帽体を横から押してみてもあまり変形しないぐらいの剛性があるので、コチラも安心感に繋がっている。



大型のエアダクトは伊達ではなく、夏場はこればかり被っていた。特に駐車場でジムカーナの真似をして汗だくになったあとの帰り道なんかはスーっと汗がひくような感覚があるほど。



シールドは安いヘルメットにタマにある像の歪みもモチロンなくとても見やすい。こういった点が少しばかり値段が高くてもアライが選ばれる理由だと思う。

しかし、ホールド性の良さと帽体の剛性の高さが災いし、メガネをかけたままだと脱着の際にメガネがずれることがある。コツをつかめばメガネをずらさずに被ることも出来るが、メガネは一旦外してから脱着した方が確実。そうするとより頬の回り込みが大きいMZやCT-Z(両方とも試着では完全にメガネを外さないと脱着出来なかった)でも良かったかなぁとも思う。

とはいえ、ジェットの解放感はそのままにフルフェイスにひけをとらない安心感のある良いヘルメットなので車種を問わずオススメできる。

とりあえず近いうちにアップタウン用のバイザーを着けよう。



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WINS X-ROAD FREE RIDE レビュー



使っているヘルメットのインプレ。

現在使っているヘルメットはWINSのX-ROAD FREE RIDE(グラフィックモデル)。

発売したばかりの頃にこれは良いぞと購入し、その後1年ほど使用しているのでインプレを書くには十分だろう。

まず、このヘルメットの特徴はオフロードヘルメットでシールドとインナーバイザー付きということ。

オフロードヘルメットにはバイザーが着いているので日差しをある程度防ぐことができる。ただ、目に思いっきり入ってくるような低い日差しはバイザーだけでは防ぎ切れない。かといってスモークシールドに変えると夜間やトンネル内はレンズの濃さによってはシールド開けっ放しで走ることになり、これもまた面倒くさい。



これはインナーバイザーを上げた状態。シールド付きオフロードヘルメットにありがちな像の歪みは問題ないレベル。
FOGWINという曇り止め用シートが付属していたが、自分は取り付けていない。



側頭部にあるレバーを操作すれば、スモークのバイザーが下りてくるので日差しが強いときはバイザーを下ろしておいて、必要の無いときは上げておけば良いので便利。
実際に冬場の西日が強い時期はあるとかなり助かる。



インナーバイザーを上下させるレバーは厚手のグローブでも操作しやすい。
レバーを後ろにスライドさせるとバイザーが下りてくる仕組みだが、個人的にはレバーを前にスライドさせてバイザーが下りる方が直感的な操作がしやすいと思った。



かぶり心地はアライやSHOEIの安心感にはさすがに及ばないまでも値段を考えると良い方。サイズは58-59のLサイズを使用している。アライだと59-60が自分のジャストサイズなので若干緩めな印象。

アゴヒモは脱着のしやすいラチェット式。最近はSHOEIもこのタイプを採用しているので強度的には問題ないだろう。


風切り音もさほどこの価格帯のヘルメットとしては大きくはなく、シールドの密閉性も悪くない。

ただ、良いことばかりではなく、インナーバイザーが付いているせいか帽体は大きめで、重量も気になる程ではないが重め。
規格もSGのみなので、本格的にオフロードを走るならゴーグルタイプでレース対応のオフロードヘルメットを買った方が良い。まともなフルフェイスヘルメットは定価で2万円前後から、あとは値段が上がるにつれて性能も快適性も上がるというのがホームセンターのヘルメットからアライまで使ってきた自分なりの考え。

とはいえ、値段を考えると充分すぎる内容だし、普段は舗装路を走っていて、たまに林道に行くような人にはオススメできるヘルメットだと思う。

清水港を歩く

富士川舟運の探索の続き。

富士川舟運によって岩淵に運ばれた積荷は清水港に運ばれ、そこから江戸へと船で輸送された。
というわけで清水港まで行ってみることにする。

どうせなら旧東海道の薩堆峠を通って行こうとするも、この日は雲が多く富士山も隠れていたので普通に国道1号で清水まで向かう。

薩堆峠は由比と興津の間にあり、晴れていれば駿河湾と富士山が一望できる。日本平と共にオススメの展望スポット。



そして清水港に。コチラのテルファークレーンは昭和59年まで清水と三保の間に走っていた清水港線で材木の積み込みに使われていたもので、エスパルスドリームプラザの敷地内にある。同線が現役だった頃はこの場所に清水港駅が設置されていた。
廃線後の8km程の線路跡はほぼ全面が自転車通行可の歩道になっていて、沿道には構内用と思われる小型の機関車と、かつて静岡鉄道の路面電車に使われていた車両が展示されている。
何年か前にこのルートを自転車で走って清水駅から三保の松原に行った事があるけど、寄り道しながら往復すると丁度良いぐらいの距離で、後ろから来る車に気を使わなくて良いので快適に走ることができた。



フェリー乗り場に向かってテクテク歩いて行くとホットロッドなイベントが。手前にあるシボレーフリートラインがTHE アメ車みたいな雰囲気で格好いい。
そして自転車に乗ってる子供のウイリーがやたら上手くて羨ましい。



フェリー乗り場まで歩くと、帆船が停泊していた。この帆船は航海練習船の海王丸で、長崎、神戸と共に日本3大美港に数えられる清水港には度々このような有名な船舶が寄港する。



船内が見学できるので頭の中でパイレーツオブカリビアンのテーマを再生しながら甲板に上がってみた。この海王丸は平成元年に就航した2代目で、速力13ノット。4本のマストでの帆走はもちろん、2基のディーゼルエンジンでの航行もできる。また、昭和5年に就航した初代海王丸は現在富山県の海王丸パークで保存されている。



日没後ライトアップとの案内があったので時間をつぶしていると土肥からの駿河湾フェリーが入港してきた。この航路は静岡県道223号線(富士山の語呂合わせ)に指定されていて、清水~土肥までを1時間ほどで結んでいる。伊豆半島に行くときに沼津周辺の混雑を回避できるのと、ちょっと贅沢なことをしている気分になるのでとてもオススメ。



そうこうしているうちに海王丸がライトアップされていた。夜になると白い船体の美しさが際立つ。
次の入港予定船は12月の飛鳥Ⅱと ぱしふぃっくびいなす。いつかはこういうクルーズ船で至れり尽くせりの優雅な旅をしてみたいものだけど、夏の新日本海フェリーの大部屋は良いものだ。




富士川舟運の痕跡を探る



日本3大急流のひとつに数えられる富士川は、かつて駿河と甲斐を結ぶ富士川舟運と呼ばれる水運が栄えていた。

甲斐からは主に年貢米が、駿河からは塩などの海産物がこの水運を使って運ばれ、江戸時代から鉄道網が発達する20世紀初頭まで輸送の主力として機能していた。物資と共に様々な文化も伝わり、かつての鰍沢は宿場町として現在では信じられない程栄えていたという。



現在の山梨県富士川町から静岡県富士市岩淵までを結んでいた富士川舟運の甲斐の拠点として置かれていた鰍沢河岸跡からスタートして、舟運の痕跡を探ってみたい。

とはいえ、何度も水害に見舞われた富士川はその都度改修され、国道52号を改修する際に宿場町の雰囲気が残っていた建物も撤去されたため、鰍沢、黒沢、青柳の3つの河岸は石碑があるのみでほぼ痕跡は残されていない。県立博物館で資料を見た方が早いし確実だけど、富士川沿いはバイクで走っていて楽しいのでツーリングのついでに探索しようというのが今回のテーマ。



国道52号を静岡に向かい、身延から県道9号と10号を使えばほぼ富士川に沿って走ることが出来る。富士川は山梨県内の釜無川と笛吹川が合流した川で、スタート地点の少し上流から始まる。甲斐からの舟は半日で川を下り、駿河からの舟は4~5日かけて川を上る。当然、船外機など無い時代なので、人力で舟を曳いて川を上っていた。、高瀬舟や笹舟と呼ばれた舟は底面がフラットな木造船で舟を曳く際は帆をかけて風力で補助するようになっていた。



静岡県内に入ると、富士川の最大の難所と呼ばれた釜口峡がある。この日は穏やかな流れだったが、それまでの川幅が一気に狭くなるため、まるで釜の湯が煮えるように渦を巻くので釜口と呼ばれるようになったのだとか。



両岸の岩は川の浸食だけで削れたようには見えない事と、写真を録った釜口橋の下流を覗くと大きさの揃った石が岸に多数転がっているのが見えるので富士川に舟を通すために改修された跡と想像。岩を砕くには上で火を焚いて岩を熱し、その後に水をかけて割る方法や、やぐらの上から鉄棒を落として砕く方法がとられた。



富士川舟運の駿河の拠点となる岩渕には富士川を開削した角倉了以を讃える石碑と岩淵河岸の常夜燈が立っている。岩淵は東海道の吉原~蒲原の間宿として栄え、ここで降ろされた荷は蒲原から清水港へと運ばれて江戸に船で送られた。


画像は山梨県富士川町HPより

富士川舟運の距離は川丈18里(約70km )。末期は鰍沢から勝沼へ至る馬車鉄道も含めると最大で120km程の長大な輸送路が静岡~山梨間に形成されていた。しかし、静岡からは身延線が、東京からは中央本線が山梨まで達すると、300年以上の歴史を誇った航路も遂に終焉を迎えることになる。(舟運末期の頃の身延山参拝の案内には身延から甲府への帰路は高速な身延線の利用を勧める案内があるとのこと)

輸送の主力を鉄道に譲ってから100年以上経ち、その間にも道路と河川の改修が行われ続けたため、川沿いにある水運の遺構もさすがにほとんど残っていない。

現在建設中の中部横断道が完成すると、富士川舟運が半日掛かりで下っていた鰍沢から静岡までの所要時間はとうとう1時間を切ることになる。

なお余談ではあるが、国道52号を改良するために鰍沢河岸の周辺を発掘したら水運の遺構と共にアワビの殻と多数のマグロの骨が出てきたという。
出土品の一部は県立博物館に展示されているが、それよりも山梨には寿司ネタに甘味のついたタレを塗る甲斐路寿司という食べ方がある。

一説では富士川舟運で運ばれるマグロが傷みを押さえるために塩漬けにされていたので、塩辛さを和らげるためにこのような食べ方を始めたという。
そうなると山梨県民のマグロ好きはすでにこの時代から始まっていたことになるし、同様にアワビの煮貝にも舟運で運ばれてきた醤油漬けのアワビがルーツだとする説がある。

このことを考えると山梨県の食文化には富士川舟運の存在が大いに関係していることは間違いなさそうだ。


勝沼ぶどう郷駅周辺を歩く

山梨馬車鉄道の探索をした時に、勝沼駅をゴール地点にしたが、勝沼駅の周辺には新線付け替えで使用されなくなったホームと線路が保存されている。



大正2年から昭和43年まで使われたホームは傾斜をかわすためにスイッチバック方式を採用していた、複線化に伴い、ホームは現在の位置に移され、当時の形で保存されている塩山側のホーム跡地は遊歩道となっている。周辺には桜が植えられているため、歩くなら春がオススメ。



大月側に歩くと、ブルートレインや貨物列車の先頭車両でよく見るタイプの電気機関車が保存されている。上に見える線路との位置関係で、ここがスイッチバック時代の線路跡ということが分かる。



さらに大月側に歩くとレンガ造りの河川隧道がある。スイッチバック時代の線路は写真右の橋台の少し先まで伸びていた。この地点から隧道と橋台を見るのは遊歩道の下にある足場が悪いところを通らなければならなかった。



遊歩道の階段を上ってさらに大月側に向かうと大日影トンネル遊歩道がある。ただ、明治35年に完成しただけに老朽化のために当面のあいだ閉鎖するとのこと。解放されていた頃はこの先の深沢トンネルまで歩くことができ、蒸気機関車の出した煤が壁面に残っているのも確認できただけに残念。



仕方ないのでバイクで隣の深沢トンネルに向かう。このトンネルは内部がワインの貯蔵庫として使われている。勝沼は言わずと知れたブドウとワインの産地で、温度変化の少ないトンネル内で大量に甲州ワインが熟成されている。



下を流れる川にはやはり河川隧道がある。この他にも勝沼駅のガード下にも歩道トンネルがあり、これらのレンガ造りのトンネル群は中央本線の開通と共に作られたため、全てが100年以上の歴史を持つ。

また、この近くに柏尾古戦場という場所があり、燃えよ剣でいうと甲州勝沼の戦いの部分で書かれる近藤勇率いる新撰組(このときは甲陽鎮撫隊)と板垣退助率いる新政府軍が戦った。

似ていない近藤勇の像とちょっとした資料、大正時代の甲州街道にかけられていた橋の橋台が残っている。



柏尾古戦場の近くにある勝沼堰堤は大正6年に完成した砂防ダムで、自然の岩盤を加工したものと人工物を合わせて作られている。水通しの部分は祇園の滝と呼ばれ、上流には石積みとコンクリートで作られた堰堤の本体が広がっている。

大日影トンネルを歩けなかったので不完全燃焼だと思っていたらダイドーの自販機で当たりが出た。それじゃまあいいか。

旧割石トンネルの謎



山梨県の市川三郷町の黒沢と落居の間にある割石峠。

現在は平成12年に開通した新割石トンネルによって簡単に越えることができるが、もちろん新道があれば旧道が存在する。



昭和34年に開通した長さ100mの旧道トンネルは付近の集落へのアクセスルートであると同時にトンネル内に地蔵が設置してある為か心霊スポットとして知られている。

友達が先輩の兄貴から聞いた話では「トンネル内を謎の老婆が歩いている」「天井から白い服を着た女が落ちてくる」「工事中の事故で生き埋めになった作業員が立っていた」「事故の犠牲者を弔うために設置された地蔵の目が夜になると赤く光る」などのありがちな怪奇現象を友達の先輩の兄貴の彼女の従兄弟が体験したらしい。

実際のところ、怪奇現象など起きないものの、深夜に肝試しに行くといかにもな雰囲気が出ているので夜はなるべく行きたくない。
今回のテーマは何故トンネル内に地蔵を置いたのかということなので、むしろ怪奇現象とか起きると困る。すごく怖い。




トンネル内は素堀のコンクリ吹き付けといった具合の内壁で、落居側の坑口からトンネル内に入るとすぐに地蔵が設置されている窪みが現れる。

ここにあるのは地蔵というよりも仏像のような形で、お菓子や花が供えてある。お供え物の内容から察するに、周辺の住民が定期的にお参りをしているようだ。写真を撮ろうかと一瞬考えるも、信心深くは無いにしても一応仏教徒なので手を合わせるだけにしておく。



黒沢側の坑口付近に割石の石龕(せきがん)と書かれた看板があった。この辺りからトンネル開通以前の道が伸びているようだけど、藪に閉ざされてしまったのか入口は発見できなかった。落居側の坑口付近のお経の書かれた石碑の辺りが入口のように見えるもこちらも藪に閉ざされていて定かではない。どちらにしろ今回は旧峠に行けなかった。

このトンネルの近くにある身延線の線路沿いには入の石龕という場所があり、トンネル内にあったものと同様の像が祀られていた。

2つとも道祖神のようなものだとすると、トンネルの開通が昭和34年で、黒沢を過ぎると甲州弁の語尾「~ずら」が「~ずれ」になるぐらいには(甲州弁は「ずら、ずれ、だら、いえ」等の語尾で出身地域をある程度特定できます)往来に苦労し、常にお供え物がある位に信心深い住民が居る地域であること。旧峠への道が藪に閉ざされていることも考えると、トンネル開通以前の徒歩道の峠道を事実上の廃道にするのに伴い、旧峠にあった道祖神をなるべく元の位置の直下に移設しようとした為、あの地蔵は現在のトンネル内に祀られることになったと考えられる。

戦後にできたトンネルなら工事中に事故が起きたら慰霊碑はありそうなものだし、記録にも残っているだろう。何よりも像がここ60年かそこらで彫られたものに見えない。(あくまで勝手な推理)



はっきりと言えるのは、峠を802mのトンネルで抜ける新道を通った方が夜でも怖く無いし早いということと、与太話をするならオバケネタの方が面白いということ、友達の先輩の兄貴の彼女の従兄弟の後輩の妹って誰だよ?ということぐらいか。

山梨馬車鉄道を辿る

山梨県の廃止された鉄道といえば山梨交通電車線(ボロ電)が有名だが、それ以前にも山梨馬車鉄道という路線が明治31年から昭和3年まで存在した。この路線はガタ馬車の愛称で親しまれた。

ボロ電の母体ともいえる路線であり現在の甲州市勝沼から甲府市を経由して富士川町鰍沢までを結んでいた。馬車鉄道の名前の通り軌間2尺2寸(666mm)のレールの上を馬に引かれた客車が走っていたという。



廃止から90年近く経っているので廃線跡をトレースするのは不可能だと思っていたらWikipediaに詳しい停車駅が載っていた。OK余裕、大体知っている地名だ。
地図を見ると恐らく富士川町から国道52号の旧道~県道26号~県道3号~国道411号が線路の跡だと当たりをつけてみた。痕跡は何も無さそうだけど歴史とアスファルトに埋もれた馬車鉄道を掘り起こしてみたい。



という訳で富士川町の鰍沢河岸跡からスタート。海が無いのに甲斐の国と言われ、東西南北を山の名前で覚える程度には四方を山に囲まれた、おおよそ水運とは縁が無さそうな山梨県だが、江戸時代から鉄道路線が整備される20世紀初頭までは富士川を運河のように使う富士川舟運と呼ばれた水運が輸送の主力として機能していた。主に静岡側からは塩などの海産物、山梨からは米を積んだ船が行き交っていた。



旧52号を北に向かうと停留所のあった追分に。ここまでの沿道は商店の件数に対して米穀店が比較的多く、恐らくは水運が盛んだった頃の名残と思われる。水運の発着点の鰍沢から北への陸上輸送の手段として馬車鉄道は敷設された。



追分から県道26号を走り、釜無川に掛かる浅原橋を渡って中央市に入る。この区間にはいくつか馬車鉄道の停留所と同名のバス停があり、ルートを追跡するのに助かる。とはいえ、いたって普通の県道が続くため、本当に経路をトレースしているのか半信半疑になってくる。どっちにしろこの道路が当たらずとも遠からずといったところか。



バス停と交差点の地名で路線のトレースができていることを確認しながら昭和町を通って千秋橋を渡って甲府市街地へ。山梨馬車鉄道は石和からここまでの区間が最初に開通し、その後勝沼と浅原橋に線路を伸ばし、鰍沢馬車鉄道の路線を合併して最大となった。
Wikipediaから引用した白黒写真は現在の411号城東通りで撮られたものだそうで、県道3号と合流する地点で勝沼に向かう線路と中央本線の開通後に追加された甲府駅前に向かう線路に別れていたと思われる。



甲府市街から石和まで混雑していたのでノロノロ運転なのをいいことに何か馬車鉄道の痕跡は無いかと探してみるも、甲州街道の頃からあると思われる道標があるぐらいだった。



笛吹川を渡ってしばらく走ると停留所の一覧にある日川橋を渡る。この橋を越えると終点の勝沼も近い。完全に日が暮れているけど、色々と用事を済ませて午後4時過ぎにスタートしたのがいけない。



勝沼のどの辺りに終点の駅があったのかは郷土史でも見ないと出てこなさそうなのでゴール地点は勝沼ぶどう郷駅とした。
その後に甲府まで伸びてきた中央本線と身延線と見事に並行するようなコースをとっていた馬車鉄道の経路は、電車線となる際は南アルプス市内を経由するルートに大幅に変更された。もしも馬車鉄道のルートに気動車が走っていたとしても、東京から険しい笹子峠をトンネルでぶち抜いてやって来る中央本線と、静岡から富士川沿いの険しいルートを多数のトンネルでぶち抜いてやって来る身延線の2線には対抗できなかっただろう。ただ、この馬車鉄道はこの2線が存在しなかった時代の山梨県の陸上輸送に大きな役割を果たしていたのは間違いない。

勝沼駅の周辺には新線付け替えでお役御免となった旧線が遊歩道として残っているので明るい時に久々に歩いてみたい。その前に鰍沢より南の富士川舟運の痕跡を探ろうか…

天城越え

セローのタイヤを交換したので調子を見るという名目で天城峠にツーリングに行ってきた。

最初は沼津港で海鮮丼を食べて帰るつもりだったのが、思いつきで行き先を変更したため、地図も持たずに青看板だけ見て行くという適当さ。とはいえ東北や北海道にツーリングに行ったときも有名な場所はほぼ青看板だけで行けたのでやっぱり青看板は偉大だ。ただ、地図はあった方が良い。



天城峠の旧道はほぼ全面フラットダート。キャンプ道具を積んだチョッパーと擦れ違ったぐらいなのでとても走りやすい。とはいえ観光地なので車や歩行者が多く注意が必要。



修善寺側から旧道に入るとすぐに旧天城トンネルの坑口が見えてくる。明治37年に完成し、現在は重要文化財に指定されているこのトンネルは正式名称を天城山隧道といい、石川さゆりの演歌「天城越え」に歌われている天城隧道そのもの。



整然と石を積み上げて作られたトンネル内は照明と相まってなんとも良い雰囲気。全長は現存する石積のトンネルとしては最長の446m。このトンネルの完成によって南伊豆と北伊豆の距離は一気に短縮されたのだそうだ。



トンネルを抜けると踊り子が居るわけでもなく、フラットダートが続く。下田方面に進んで行くと長い未舗装路を楽しめる。



途中に一部舗装区間があり、その区間にある橋が寒天橋。「天城越え」の歌詞に出てくるあの寒天橋。枝道は寒天車道という名前が付いているけど一般車両は通行不可。山が燃えると歌ってもアレは比喩だったはずなので火災には注意しましょう。



峠を下田方面に下りきると414号の本線と合流するのでUターンして旧道の峠を再び越えて帰路へ。沼津に抜けるよりも一旦三島に出て新東名で帰った方が早いかと思い、有料道路に乗ったらものすごく混んでいた。戻れなくてももういいの…イヤ良くないって。

セローの前後タイヤを交換…してもらった

前回のボロ電探索のついでに甲府の2りんかんで交換時期だったセローのタイヤを交換した。(むしろこっちが目的で甲府まで行った)



フロントはそろそろスリップサインが出そう。



リアはもう少し使えそうだけどこの際なので交換する。バイクに乗り始めた頃はリアタイヤばかり減ったけど最近は前後均等に減るかフロントがちょっと先に減るようになった。



交換後がコチラ。山があるって素晴らしい…タイヤは前後ともダンロップのD605に交換。在庫がいつもあるので悩むまでもなく毎回コレに交換している。8割がた舗装路で使用しているので亀甲パターンのGP210でもいいんだけどビジュアル的にブロックタイヤの方が好みだし、もちろんエンデューロタイヤやツーリストが必要な程激しいオフロードには行かないし、在庫がいつでもあるからすぐに交換してくれるのでこれで充分だろう。

交換を終えてバイクを受けとるときに2りんかんのメカニックさんが一言「フロントのホイールベアリングがゴロゴロしているので交換をオススメします」と。そろそろ換えといた方が良いかと思っていたけどやはり交換時期か…

現在の走行距離は2万5千km。 この際なので前後ホイールとステムのベアリングを一気に交換してしまおうか…


ボロ電の痕跡を追う

かつて甲府市と富士川町の間を結んでいた山梨交通電車線の跡を走ってみた。

この路線は昭和5年に開通し、ボロ電の愛称で沿線住民の足として親しまれた。当時の駅数は28。総延長は20.2km。戦後の自動車の普及による乗客の減少や昭和34年の伊勢湾台風による被害などにより、昭和37年に廃線となり、線路跡はそのまま廃軌道という名前の県道に転用された。

廃軌道自体はなんて事の無い県道でこの電車線も存在を知った頃には既に都市伝説のような扱いだった。ただしよく見ると沿道には電車線だったころの痕跡が少しばかり残っているので探索してみたい。



まずは甲府駅北口からスタート。ほんの10年ほど前までは何も無かった北口は甲府城の城下町を再現したような建物が並ぶ。南口側にボロ電の起点となる駅があったが、当時の面影は残っていない。甲府駅周辺を歩くなら昼間は比較的史跡や観光地の多い北口側(史跡と観光地には武田神社や昇仙峡や湯村温泉と積翠寺温泉も含まれるので移動手段を確保することを推奨。徒歩では遠い)、夜は酒処の多い南口側がオススメ。



画像の奥に見える白い建物がかつてのボロ電の起点。舞鶴公園と呼ばれる甲府城の石垣の横を通って甲府市街へと向かう。当時の駅ビルはもちろん建て替えられ現在は山交百貨店として運営されている。起点から甲府の市街地は路面電車として運用されていた。当時の写真にもこの場所を走るボロ電の姿が写っている。ここから併用軌道が荒川橋まで続く。


 
石垣の向かいにあるのはボロ電が開通した昭和5年に建てられた県庁の建物。現在の本庁舎は別の建物になっていて、別館として使われている。県議会議事堂と共に文化財に指定され、建屋内の一部は山梨近代人物館として見学が可能。当時の内装が復元されている。



荒川橋を過ぎると線路は専用軌道の区間となる。なぜコジマの建物が写っているのかというと、ここに貢川車庫と呼ばれる車両基地ようなものが存在した。廃線後は山梨交通バスの営業所になり、ダイエーになり、現在のコジマになった。1階の駐車場はよく見るとバスターミナルの面影が残っている。



専用軌道の区間に入るとこのような緩い線形や、車道に転換するときにレールを撤去した盛土の上にそのままアスファルトを敷いたのか古くからある寺や店舗の敷地は道路よりやや下にあるなど、かつてこの道が線路だったことが分かるものが増えてくる。



また、このように不自然に路肩や歩道が広くなっている場所が何ヵ所もある。バス亭になっている場所が多く、電車線時代の駅名とバス亭の名称が同一な場所には駅があったと思われる。



南アルプス市から富士川町内に入ると道幅が単線の鉄道跡らしくなってくる。この先には橋があり、その下を通る利根川はかつて川床が周囲の土地よりも高い位置にある天井川だったため、電車線時代は川の下をトンネルで抜けていた。ここがボロ電の唯一のトンネルとなる。



橋の近くの公園には車両が展示されている。このモハ7形は電車線の廃止後、上田電鉄で使われ、その後に江ノ電で使われた後、現在の場所に保存されている。



橋を渡り、しばらく走ると終点となる甲斐青柳駅の跡地に出た。この敷地も廃線後に山梨交通の営業所となり、その後はローソンになり、現在は中華料理店になっている。ボロ電が走った区間はこれで終わりだが、実はボロ電には延伸計画があった。



計画どおり延伸されていれば線路はこの先を通って身延線の鰍沢口駅まで延びる予定だったという。突き当たりの部分までは用地の確保はされていたようだ。もしも身延線に接続することが実現していたとして、廃軌道の距離が少しばかり伸びる位で特に歴史に変わりは無かったと思う。ただ、甲府盆地の南の端の住人が個人的な願望を述べるなら車で甲府駅周辺に行くと渋滞と駐車場探しが正直メンドクサイのと、北口で試飲会やらビアガーデンとかやってたらフラッと寄ってちょっと一杯ひっかけて帰るという事も気軽にできるので、この電車が今もあれば便利なのにと思ったりする。終電がやたら早そうだけど。



日本で買えない日本車

暇潰しにヤマハとスズキの海外サイトを見てみた。海外だと日本での販売が終了した車種が普通にカタログに出ていたり、独自の進化をしていたりする。特にオフ車が。

まずはYAMAHA USA からTW200



日本だとスカチューンが純正みたいになっていたバイクなので逆に新鮮。サイトにある動画でもガッツリオフロードを攻めていますが本来こういう使い方を想定されたバイクでしたね…楽しそうだなコレ

続いてYAMAHA AustraliaのAG200。



広大な農地で使う事を想定したバイクで大型の荷台とフルカバーのチェーンケース、両側にスタンドが付いている。日本でもちょっとだけ売られていた。この画像だとツーリングセローよりカッコよく見える。



そしてコチラが2サイクルのAG100。原型はHT-1か何かっぽい 。この形で空冷2サイクルで新車が買えるって素晴らしい…

さらにYAMAHA SouthAfricaから



TWとAGシリーズと共にこのデザインのDTがラインナップされているとは…しかも125と175の二本立て。

そしてSUZUKI Australia



日本での販売が終了して久しいDR-Z400 が未だにラインナップされている。250ccモデルと共に国内版のカタログに載ってても違和感が無いけどまあそこは色々な事情があるんだろう…主に規制とか…



トロージャン200。背景と装備のせいでほぼジェベルと同じバイクなのにやたらカッコイイ…




そしてTF125。恐らく原型はハスラー 。保安部品が付いているけど現地では普通にナンバー付けて乗れるのかあるいは構内専用車みたいな扱いなのか…どちらにしろ商売になるぐらいの需要があるってことか。

現役で作ってるバイクがコレだけあるなら車も何かあるんじゃね?とPak SUZUKI(パキスタン) のサイトに飛んでみた



大量に走っていたはずなのにいつの間にか見なくなった形のアルトだ…(現地名:メヘラン)



コレも大量に走っていていつの間にか見なくなった形のキャリイ。(現地名:ボラン)しかも当時でも余り見たことの無い一方開き。一緒に写っているイケメンが「日本のみんな、世界は広いぜ!」と言っているように見えてきたのでとりあえず英語を勉強しよう。

※pictures quoted from each company home page

プロフィール

コーテル・リャン

Author:コーテル・リャン
東に不動車があれば引き取って直してやり
西に峠があれば行ってそこを越え
テントを張れば雷雨に怯え
林道に入ればヨタヨタ走り
誉められもせず 苦にもされず 
そういう人が私です。

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