奥多摩を探索する その3

奥多摩周遊道路を走っていると、山のふるさと村という場所がある。

キャンプ場や木工や陶芸などのクラフト体験ができる施設があり、奥多摩湖畔の散策路も整備されている。

普通に過ごしても楽しめそうなこの場所に、それはある。



目があった。



地面からオート三輪が生えている。もう少し日当たりを良くすれば荷台の鳥居がシャキッとして屋根が生えて走るようになりそう。



発動機という表現がぴったりな形のOHV単気筒エンジンも残っている。車種はダイハツのSDB型1トン車だそうだ。



山のふるさと村はダム建設に伴い住民が移転した旧小河内村の水没を免れた集落跡に作られている。
このオート三輪も住民が置いていったものだという。



411号線に戻って帰路へ。
現在も道路改良が続く柳沢峠の区間にはいくつか旧道が残っている。

旧道のほとんどは閉鎖されているが、民家がある関係で閉鎖されていない区間には昭和35年竣工の女橋がある。

他の旧道区間に残る橋の竣工年も近いことから考えると、おそらく柳沢峠を越えて奥多摩まで全面的に自動車が通行できるようになったのはこの時期で、それ以前は塩山から丹波山までの馬車道があったようだ。

馬車道を自動車道として改良する際に一部ルートが変更され、塩山の藤尾橋から丹波山の船越橋までの黒川通りと呼ばれる区間は明治の馬車道のまま改良されずに残っている。



黒川通りには411号の羽根戸トンネル付近からアプローチできる。いかにも昔の峠越えの街道といった道が50mほど続き、かろうじて石垣が残る崩落箇所を越えた先には広い馬車道や橋台が原形を留めて残っているそうだが…



無理!帰ろう!踏破した人のレポートを読むと、木にかけたロープに掴まりながら崩落箇所を越えたとか、斜面をよじ登ったなどの記述がある。普通に通行できる道路って実はとても有難い。



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奥多摩を探索する その2



ロープウェイが渡っていた奥多摩湖は東京都の水源確保のために作られた昭和32年に完成した小河内ダムの人造湖。



国道411号と平行するように、ダム建設の資材を運んでいた蒸気機関車の線路が残されている。この地点は旧青梅街道をトレースする奥多摩むかし道と交差していてその先には線路と平行するように遊歩道が延びている。



路線名は東京都水道局小河内線。工事用の鉄道ながら国鉄の路線から直通の貨物列車を乗り入れることや、ダム完成後も電化して観光用路線として利用することも考えていたのか、国鉄の線路と同様の規格で作られた。



日原鍾乳洞へと向かう道からはコンクリート製のアーチ橋が見える。氷川駅から水根駅までの標高差は橋とトンネルを組み合わせることでクリアしている。蒸気機関車がここを走る姿は絵になりそうだが、乗務員にとっては過酷だったに違いない。
なにしろ僅か6.7kmの間に23の橋と26のトンネルがあって、勾配は最大で30パーミルもある。



小河内線はダム建設に多大な貢献を果たした。ダムの完成後は列車が走ることはなく、現在は休止線の扱いになっている。

地元の人によると、20年ほど前に線路を活用しようという計画があったものの、整備費の問題で実現しなかったとのこと。テレビの企画でこの線路にトロッコを走らせたことがあるようなのでそのことを言っているのかもしれない。



奥多摩駅を過ぎて、411号を青梅方面に進むと白丸トンネルの脇に数馬隧道という素掘りのトンネルがある。
大正5年に作られたトンネルで、このトンネルが完成したことで、この地は車両での往来が可能になった。



トンネルの上に青梅街道の古道がある。この数馬の切通しは氷川に至る険しい山越えを回避する目的で江戸時代(1700年頃)に作られた。
火を焚いて熱した岩盤に水をかけてヒビを入れ、ツルハシで砕く方法で切り開かれている。
この切通しによって荷を積んだ馬が通せるようになり、多摩川上流の集落との物質的な交流ができるようになったという。



奥多摩にこれだけの物件が揃っているのは、ダム完成後に東京都が水源保護のためにこのエリアの開発を制限する姿勢をとったことが大きいと思う。そして、物件はまだある。

奥多摩を探索する

奥多摩にツーリングに行ってきた。



411号で柳沢峠を越え、奥多摩へと向かう。この辺りは涼しくていいやと峠を下っていると、なにやら錆びついた物体が。



ボロいバスだなぁ…子供が見たら泣くぞこれ。古いバスが物置代わりに使われている光景はさほど珍しくないので今まで気にしていなかったが、よく見るとピラーから何か赤いものが生えている。



アポロウインカーじゃないか!

気になったのでこのバスの素性を調べてみたところ、山梨交通で使われていた昭和30年頃の民生デイゼル(現UDトラックス)製イーグル号というリアエンジンバスだそうだ。

塩山駅~奥多摩(このバスが現役だった当時の名称は氷川)駅を結ぶ路線で運行されていたにしろ、甲府盆地からの最後の回送の終点がここだったにしろ、重ステダブルクラッチで昔の柳沢峠を走るのは大変そうだ。



丹波山村を過ぎて奥多摩町に入る。奥多摩周遊道路の入口付近におよそ手入れがされた形跡も無ければ送電用でもない鉄塔が立っている。上空に張られたワイヤーは山の中に消えていき、その先には



これがある。

名を奥多摩湖ロープウェイといい、昭和37年に開業。奥多摩湖を南北に横断するルートの渡し舟のような役目を持ち、登山者や観光客の需要を見込んで作られたようだが、わずか4年後の昭和41年12月に冬期休業の名目で運行を休止。結局、春が訪れても運行が再開されることはなかった。



運行の再開どころか事業の継続を断念して所在不明にならざるを得なかった運営会社からすれば不本意極まりない事だが、放棄されたこのロープウェイは廃墟として有名になってしまう。

定期的に清掃されているのか、廃墟にありがちな不気味さはそれほど感じられず、人工物が自然に飲み込まれつつある様が幻想的ですらある。



みとう号の愛称が付いた搬器が長い冬季休業に入って51年。この場所に昭和42年の春が訪れ、対岸にいる相棒のくもとり号と再会することは、おそらく無い。




早川入往還を走る

前回の早川町の旧道探索で、かつて早川入往還と呼ばれた街道の一部を走ったので、今回は可能な限りトレースしてみようとまたも早川町に行ってきた。

この街道は早川入の名のとおり、県道開通以前の身延~早川間のメインルートであり、身延町切石から早川町奈良田までを結んでいた。

身延の切石で下ろされる富士川舟運の荷はこのルートで早川流域に運ばれた。言われてみると、県道から見た対岸に民家が集中しているように見えるし、かつて早川町がいくつかの村に分かれていた頃は山中の道路沿いに役場や学校などがあったと言われればこちらがメインルートであったことを疑う理由はない。



というわけで身延町切石をスタートする。県道沿いには古い家屋や蔵などがあり、街道であった名残が感じられた。



県道421号の間遠トンネル付近はループ道になっている。旧道の痕跡は既に無いが、トンネルとループに至る道の地形からみると、以前はつづら折りの峠道だったと思われる。



間遠トンネルはループ道側と早川側で抗門の形が違う。ループ道側はよくある古いトンネルといった雰囲気で路肩の石垣もあってシンプルだが悪くない。



早川側はトンネル内が素堀のコンクリ吹き付けであることがよく分かる無骨な雰囲気。トンネル名のプレートが無いことを考えると法面工事をした際に作り直したように思える。



トンネルを抜けて町道を早川町に向かって進んでいくといくつかの集落がある。集落の前後の道を撮っておけば良かったのだが、道路は落石防護ネットがバッチリ仕事をしている様子が見てとれるので、見張らしは良いものの早いとこ通り抜けてしまいたかった。この道は富士見山林道になる。



早川町内の笹走から塩之上へと下る。さらに下ると草塩集落へと向かう分岐が現れる。草塩へのルートが早川入往還の本線のようだが、残念ながらゲートで閉鎖されていた。



塩之上から薬袋へと向かう道沿いには学校の跡がある。地名は天久保とかいてソラクボと読み、この場所には五箇小中学校と五箇村役場が置かれていた。



五箇村は明治7年から昭和31年の早川町発足まで存在した村で、現在の早川町笹走、塩之上、薬袋(みない)、千須和(せんずわ)、榑坪(くれつぼ)地区が該当する。昭和30年の時点での人口は1,132人だったそうだ。これは現在の早川町全体の人口とほぼ同じ位になる。

翌年に早川町が発足した当時の全人口は8,116人であり、南巨摩の自治体はどこでもそうだが緩やかに減少を続けている。



天久保集落は無人になって久しく、学校や役場の跡も門柱と石碑を残すのみだが、笹走、塩之上の集落の規模や、道路沿いには建物があったと思われる平らな土地も確認できるので、ここがかつて交通の要衝として賑わっていたことが分かる。

天久保から薬袋に下り、温泉に入りたいのと鹿肉が食べたいので県道へ出て草塩へ。草塩には町営温泉とジビエ料理の食べられる加工所がある。

県道37号と早川入往還の線形を比べると、幹線道路が現在の県道になったことも納得できる。仮に県道のベースとなった電源開発のための馬車軌道が作られなくとも、早川入の峠道の拡幅ではなく、早川沿いに新道は作られただろうと、貸し切り状態の町営温泉に浸かりながら思った。鹿肉はラストオーダーを過ぎたので食べることが出来なかった。


早川町を走る その2

再び早川町に行ってきた。

発電施設を作る際に敷設されたトロッコ軌道の跡を探ろうと思っていたが、そもそも県道と井川雨畑林道自体がかつての軌道跡をベースに作られているので、ならば県道の対岸に何か無いかと探してみる。



この鷲尾橋を渡って対岸へ。この橋は路面が側溝の蓋によくあるグレーチングになっている。



下を覗いてみた。増水したときに有利とか、強度とコストの兼ね合いとかでこういう風にしたんだろうけどかなりスリリング。



対岸の町道を行ける所まで行ってみる。舗装されてはいるものの、路面は終始こんな状況。



町道はこの都橋で歩行者および軽車両専用になる。判読できないほど錆びた重量制限の標識を見る限りは、以前は自動車も通行できたようだ。

後で分かった事だが、写真の道は早川入往還と呼ばれた街道の一部のようだ。ただの地元道ではなかったか。



井川雨畑林道にも何かありそうなので、何かがおかしい落石注意標識のある林道を通行止め地点まで行ってみることにする。



林道の奥にはこの稲又橋がある。付近に森林軌道や分校の跡があるそうだが、それよりも橋の下に何かあるぞ。



一部で有名な落ちそうで落ちない橋が。昭和57年の台風以来この状態だそうで、奥の砂防ダムの外観が新しいことを考えると、この地で何が起きたのか容易に想像できる…



橋を渡ってしばらく走るとトンネルの先で通行止になる。これは道の先が危険な状態にあると同時に、この先に民家が無いことを意味している。この区間の開通時期は平成30年の予定だそうで、さらに先の区間は「当面の間」通行止という状態だ。忘れた頃に全面開通して、しばらくすると「当面の間」通行止めになるんだ。

そういえば軌道跡を見に来たんだった



県道から1本隣にある春木川橋の古い欄干が残っているあたりの路面をよく見ると…



レールが路面に埋まっている。冒頭にも書いたとおり、かつてこの地には発電施設を建設するための輸送路として馬車軌道が敷かれ、レールの撤去後は軌道跡をベースにした車道が作られ、現在の県道37号となったのだそうだ。



春木川橋付近の角瀬トンネル脇には使われていない昭和5年完成の旧道のトンネルがあり、内部は素掘りとなっている。



その横にはトンネル開通以前の旧旧道と山に伸びる旧旧旧道らしき徒歩道が残っている。新道が出来ると徹底的に旧道を封鎖する傾向のある山梨において、こういう場所は貴重だ。

ではトンネルの身延側はどうなっているのかと、トンネル脇から伸びる軌道跡を車道にしたように見えなくもない旧道を歩いていく。身延側は大正11年完成で、後年になって春木川橋側のトンネルと接続された痕跡やら、抗門の先に元々の抗門があったり、古い標識が残っているそうだが…



……俺の立っている場所がこうなる前に帰ろう。付近には旅館や駐車スペースもあるので大日影トンネルみたいに遊歩道としてどうにか再利用できないものか?出来るならとっくにやってるか…



 
プロフィール

コーテル・リャン

Author:コーテル・リャン
東に不動車があれば引き取って直してやり
西に峠があれば行ってそこを越え
テントを張れば雷雨に怯え
林道に入ればヨタヨタ走り
誉められもせず 苦にもされず 
そういう人が私です。

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