富士川街道を探索する

甲府市と静岡市清水区を結ぶ国道52号線。

かつて駿州往還や甲駿往還、あるいは身延道とも呼ばれた街道を元にし、山梨県の特に南巨摩地域の住人にとって、アメリカにおけるルート66のような存在である(大袈裟) 。

特に現在富士川街道と呼ばれる富士川町から南部町の区間は、明治と大正に車両の通行に対応するための大規模な改良がなされ、その後も災害対策や、交通量の増大に対応する新道の開通により旧道となった区間が多数存在し、以前行ってあっさりと撤退した 下山隧道をはじめとする物件がいくつか残っている。

まずは身延町内にある下山隧道にリベンジしてみよう。前回は藪が深くてよく分からないまま終わったが、藪の低い冬場ならイケそうだ。



イケた。
大正12年竣工、全長234m。身延山の山門を彷彿とさせる坑門の巨大な扁額が特徴である。コンクリート造りの道路トンネルとしては恐らく山梨県内では最古の物件。

サイズを見る限りトンネル内での対向車とのすれ違いは困難もしくは不可能だっただろう。

それよりも特筆すべきは用途廃止になると跡形もなく埋められる傾向のある山梨の旧道トンネルが金網で塞いだだけで放置されているということだ。

路盤のあった場所は沢が深い谷状になっているのでこれ以上は近づけない。恐らくトンネルが埋められていない理由はこれで、旧道化した際に災害対策としてトンネル前後の路盤を掘って沢を広げたために坑門に近寄れなくなったので埋める必要がなかったのかもしれない。

ただそうすると現存するか不明な南側の坑門に行けるコンクリ橋の説明が難しくなるのだが、トンネルを砂防ダムを作る際の資材置き場にするために廃道後に作ったということにしておこう。
北側の路盤が盛土で道路跡と分からないぐらいの斜面にしてあるのは砂防ダムの完成後に点検用の通路を作るついでに旧道の痕跡を消したということにもしておこう。




続いて同じく身延町内にある榧の木隧道へ。竣工年は調べた限りでは昭和7年だそうだ。

現在の甲府から清水までの所要時間は2時間半かそこらだが、全線こんな調子でロクに舗装もされていない道路状況が続く昭和28年の国道指定当初は今の2倍以上は時間がかかったんじゃなかろうか…

手狭になってすぐ下に新トンネルができた現在も通行できる状態に維持されているのは、トンネルを抜けた先の分岐が民家に続いているので住民の利便のために残しているのだと思う。



そしてコチラが今回探索した中で一番古いトンネルとなる大野隧道。

大正11年の竣工だが、車道としての役目は並行する新トンネルにその座を譲り、現在は歩道トンネルとなっている。
新トンネルの歩道がお世辞にも広いとは言えないことや、身延駅から身延高校や久遠寺へのルート上にあるために歩道トンネルとして活用されることになったのだろう。

改修を受けているために竣工当時の外観のままではないものの、竣工当時は下山隧道のような巨大な扁額があったのかもしれない。

下山、大野のトンネルは明治の道路改良によって作られた南部新道と呼ばれる道路を大正の道路改良でトンネル化したもの、廃道となった富士川沿いの南部新道にあるという名称不明のトンネルも大正時代のものだと考えられる。

大正時代のトンネルができた経緯や、昭和に榧の木隧道が出来てからはそちらを通るようにルート変更がされたのは、道路の拡幅や距離の短縮もそうだが、富士川の氾濫や土砂崩れを回避するためという理由が大きいだろう。

大野隧道の脇には明治の南部新道らしき道があるのだが…



ああ、これはダメずら
木が倒れている所から先は既に斜面に戻っていた。この道路が現役だった頃もたびたびこのような崩落があったのでトンネルを掘ることにしたんだな…ただ、道幅を見る限りでは車両の通行を想定した当時としては高規格な道路だったことは確かだ。

ここを過ぎると南部新道は富士川に沿って南部町に入るようで、身延と南部の境目あたりに廃トンネルがある。手持ちの地図に身延町光子沢から南部町中野の富士川沿いに書かれている徒歩道が恐らくそれだ。このトンネルも塞がれることなく現存しているそうだが、「トンネル前後の道が崩れてしまったので塞ぐ必要が無くなった」という可能性がなきにしもあらず。

現地には進入できそうな場所が一応あるので、現物を見てから考えてみようと思ったが、竹藪から出れなくなりそうなのでやめた。


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駿遠線 五十岡駅跡

かつて藤枝市から袋井市までを結んでいた静岡鉄道駿遠線という鉄道があった。

駿河湾と遠州灘に沿うように設置された路線距離は64.6km。軌間762mmの軽便鉄道として日本一の距離となる。

こういった鉄道は自動車の普及や施設の老朽化に伴い、トラックやバスにとって変わられるのが大半だが、駿遠線も例外では無く1970年に廃線となる。

線路跡は自転車道となっている区間が多く、今回寄った五十岡駅と石津駅にはホームの遺構が残っている。



電停という呼び方の方がしっくりくるような駅跡はちょっとした公園のようになっていて、駿遠線を辿るウォーキングマップが設置されている。
車に自転車を積んでくればよかった。



線路跡の様子はこのようになっている。
中央に敷かれたブロックが、ここに線路があったことを主張しているようだ。



恐らく軽便鉄道の頃から使っている橋もある。最後まで電化はされなかった。



袋井駅側に進んで行くと駿遠線の説明文が書かれたベンチがある。現役当時は住民の足として重宝されていたようだ。



保存車は藤枝市郷土博物館にある。
駿遠線の主力はディーゼルカーやガソリンカーだったが、現存する車両は蒸気機関車のB15型1両だけとなる。

国鉄よりも狭いレールを使っていたため、この機関車もコンパクトで可愛らしいスタイルをしている。
博物館内の見学は間に合わなかったが、館内には駿遠線に関する映像やジオラマといった資料が展示されているので、いずれ再訪してみようと思う。

次回は自転車を積むのを忘れないようにしなければ…

掛川市 小夜の中山と東海道石畳

岩谷隧道の次に向かったのは箱根峠、鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所として知られる小夜の中山。



標高252mのかつての難所は急坂ではあるものの、現在では容易く車で越えてしまえる。当時はもちろん舗装などは無く、さらに山賊が横行する危険地帯で、峠越えは容易では無かったそうだ。



金谷駅方面へと下っていくと、旧東海道の石畳がある。



この石畳は地元の人達によって復元されたもので、大井川の河原石を敷き詰めてある。
30メートルほどの区間には江戸時代からの石畳が残っていて、その区間は牧之原台地の山石を使っている。砂利やぬかるみの峠道に比べれば、格段に歩きやすかったに違いない。

道中には滑らないことに因んで、すべらず地蔵尊という地蔵堂があり、受験生や芸人の願掛けにもおすすめだ。

このルートはハイキングコースになっているので、金谷宿から掛川宿まで自転車か歩きでゆっくりと辿ってみるのも面白そうだ。

掛川市 岩谷隧道

静岡に行く用事があったのでついでに掛川の周辺をうろうろしてきた。

まずはナニコレ珍百景で紹介されたこともある掛川市の岩谷隧道に行ってみる。



入り口はこんな形。公園なんかにありそうな内壁の補強の仕方だ。何となく水路のように見えてくる。

当然、これが出口まで続くのかと思いきや…



ものすごくワイルドになる。一応、扱いとしては車道だ。



岩が張り出している場所には蛍光色でペイントがしてあり、高さ制限の理由になっているだろう岩にはハツリ作業を試みたような跡が付いている。



更に進んで行くと、天井が高くなる。
このトンネルの横の断面はドラえもんのガリバートンネルのようになっているみたいだ。



反対側に出た。こちら側から入ると進むにつれて段々と狭くなるので、更にガリバートンネル感がある。

珍百景によると、大正時代に山を挟んだ集落の行き来をしやすくするために住民総出でツルハシで掘ったトンネルだそうだ。街中から少し外れた場所にこんなトンネルが現役で残っているとは…

一応車道扱いなので、ラパンで通過してみようかと思ったものの、怖いのでやめた。

長野、群馬ツーリング その3

温泉に入って、北軽井沢へ。



昭和37年まで草津~軽井沢間を運行していた草軽電気鉄道の北軽井沢駅が保存されている。



この駅舎は日本初のカラー映画「カルメン故郷に帰る」に登場し、神社仏閣を思わせる外観は信州善光寺をモデルにしている。



北軽井沢から有料道路なのになぜか旧道っぽい白糸ハイランドウェイを軽井沢へと下っていくと線路跡が道路になっている区間がある。奥の1段高くなっている車線が線路の跡で、付近には旧三笠ホテルがある。



旧三笠ホテルは明治39年に開業した純木造の西洋式ホテルで、多くの著名人が訪れたことから軽井沢の鹿鳴館と呼ばれていた。周りを囲む森と建物の組合せが素晴らしい。

ところで、北軽井沢といえば戦後の日本のモータースポーツを語るときに欠かせない浅間火山レースの舞台である。
1955年の第1回大会は北軽井沢をスタート地点とする公道を使用して開催される。1957年に浅間高原自動車テストコースが完成し、第2回大会からはこのコースを舞台に開催されることになる。

舗装こそされていないが1周9.3kmの国内初の本格的なロードコースには、ホンダ、ヤマハ、スズキという現存するメーカーから、メグロやトーハツ、ポインターといった幻となった名車が集い、ライダーは幻の天才、伊藤史郎をはじめとして、第3回大会でホンダのRCレーサーを押さえてベンリイ改で優勝を飾った北野元、マン島TTで日本車に乗る日本人選手として初の入賞者となる谷口尚己、後に四輪レーサーとしてスカイラインの黄金時代を築くことになる高橋国光、砂子義一といった現代にも語り継がれる名人である。



浅間火山レースが開催された期間は短いが、コースは現存している。残念ながら時折エンデューロやダートトライアルが開催される日以外は立ち入り禁止になっている。

ここからは想像力の勝負だ。

現在、私が立っているのはホームストレート。幅員はおよそ20メートル。勾配は殆ど無い。霧のため最終コーナーの大森カーブの線形を伺うことはできない。

振り返ると、カスミのカーブをはじめとする緩いコーナーが連続する区間が続き、ファーストファイトと呼ばれるストレートを経て180度ターンし、セカンドファイトへと続くのだが、この区間は牧草地に戻されている。それでも、大森カーブを立ち上がって全力でホームストレートを駆け抜け、ファーストファイトへと至るマシンの姿を想像するには充分だった。



そして、軽井沢から上信越道へと至る道から見える山はドラゴンボールを思い出すのに充分であった。
プロフィール

コーテル・リャン

Author:コーテル・リャン
東に不動車があれば引き取って直してやり
西に峠があれば行ってそこを越え
テントを張れば雷雨に怯え
林道に入ればヨタヨタ走り
誉められもせず 苦にもされず 
そういう人が私です。

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